村瀬孝生・東田勉著「認知症をつくっているのは誰なのか」 という本を読んで、考えさせられたこと!!

ちょっとショッキングなタイトルの本だったので、手にしてみた。著者の一人である村瀬氏は、現在「宅老所よりあい」(福岡市中央区地行)の代表である。宅老所とは民間の独自の福祉サービス施設であり、公的な施設としては、小規模多機能型居宅介護施設と同種の施設である。

 「宅老所よりあい」が全国的に有名となったのは、徘徊に対する取り組みがテレビで放映されてからであろう。玄関には鍵をかけず、出ていくお年寄りがいたら職員がついて歩くという対応をしているという。

 最初の書き出しで、「医者が“認知症がある”という理由で積極的に認知症という診断を下し、薬を出すようになった。その結果、うつ病の薬ができたためにうつ病の患者が飛躍的に増えたのと同じような現象が起きた。」(P5)という指摘がされており、またカンタンにいうと「認知症狩り」が始まろうとしているとも述べている。

これらの指摘に、半信半疑の気持ちで読み始めた。往々にして、センセーショナルな書き出して、関心度を高める手法を取りがちであるが、読み続けているうちに、気持ちがだんだん引き付けられていった。

現場からの報告は、ある事実でも、立場によって見方が全く逆転するケースをしばしば、経験するが、しかも介護や認知症とは無縁(あくまで現状においてであるが)な小生にとっも、“思いもしなかった真実がここにある”という確信を持たせる内容であった。そのように確信を持たせた指摘を2つだけ紹介しよう。

まず最初に次の指摘を紹介しよう。「アルツハイマーの人だから、レビーの人だからっていうふうに類型化されても、意味がない。生活を支援するというところから言えば、ほとんどやっていることは一緒だから、病型に合わせて、変えていることはあまりない。診断をして病型を見ても、それが医療で本当に克服できるものであれば意味があるが、克服しようとするエネルギーよりも、そういう状況を抱えても普通に暮らすというか、他の障害のない人たちと同等の暮らしをすることの方にエネルギーを割くべきだと思う。」(P74)という指摘である。

この指摘から思えるのは、医療と福祉に対する思想の違いであろう、つまり医療は、病理学的疾患体系に則した分類で診断するところに特徴があり、福祉は対象者を総合的に判断し、その人間生活を総体的にとらえるという相違が感じられる。筆者の思想を予測すれば、“医療は病気だけをみて病人をみない”し、“福祉はその人間の生活を総体的に捉える”ということも言えよう。

このような見方は、次の内容を読んでも納得できるのではないか。

「今、医学の世界では、「四大認知症」という言い方をしている。しかし、僕らはやはり,福祉の人間じゃないですか。だから治らない病気や治らない障害に対して、治らなくても他の人たちと同等の暮らしができるように支援するのが使命だと考えています。だから、どんな名前の病名が付くかよりも、「どう暮らすか」の方が重要なわけです。」(P72)と指摘していることからも言えよう。

 もう一つの感銘を受けた指摘は、ぼけと上手に付き合える家族はどこが違うかということについて、「家族も、ざっくりというと、“認知症の父”というふうになる家族と“父は父”っていう家族に分かれる。認知症という病名がつくと、安心する家族がいるがそんな家族ほど在宅介護が続かない。あるおじいちゃんの家に行ったら、玄関が水浸しになっていた。

その息子さんが、“村瀬さん気を付けてね。ちょと、水まいていますから”と注意してくれた。なぜと聞くと、“いや、お父さんがここにウンコしたから”というんです。

この家族は在宅介護が続く。反面“村瀬さん、聞いてください。ここにウンコされたんです”というような言い方をする人は続かない。“認知症の父”というふうに、常に認知症を通してしか父を見ていない家族は、介護が長続きしない。だからどこか施設に入れて、そして薬である。いい結果にはならない。」(P175~P178)と言い切っていることである。

 確かに介護者にとっての“認知症の家族”を持つことは、大変な精神的負担を感じるだろう。しかし、この本を読んでみて、考えさせられたことは、一番苦しんでいるのは、認知症に苦しむ本人であり、周囲の目も“最も苦労させられる病人”という見方で接すると、お互いの心はどこまでの平行線をたどり、お互い不幸な時間しか残されていないということになってしまう。

この本は今までイメージしていた認知症の見方を大きく変えさせてくれた。是非お勧めしたい本である。(文 池田重信)